2015/04/06

TECHNIUM(テクニウム)を読んで --元気なじいちゃんの話に半年間付き合った、 という話--



 このエントリーは、みすず書房から出版されているケヴィン・ケリー著「テクニウム」の書評。のつもりで書き始めたのですが、

なんか、読んでるうちに中盤あたりから「なんだろうこの感覚。昔ヒッピーだったおじいちゃんがずーっと”わしの考えではな…”って語りかけてくるのをうんうん聞いてあげてる感じ。。。」と思ったのでそのままの気持ちで書きます。

---
著者ケヴィン・ケリー
 ケヴィン・ケリーと言えばWIREDの創刊編集長、ホールアースカタログの出版編集をした人、元々ヒッピー。

 そういや、去年WIREDカンファレンスで来日した時の様子をブログに書いたな。
WIRED CONFERENCE 2014 #wiredcon に参加した時に取ったメモをそのまま投稿してみる )

 テクニウムは、確か去年の9月くらいに買って

「400ページかー、分厚いなー。1ヶ月くらい掛けて読むか」

と思っていたら、内容が濃くて中々読み進まないのと、10月にwiredカンファレンスが開催されて1日中ケヴィン・ケリーの話聞いてたらお腹がいっぱいになり、しばらく読むのを中断してなんだかんだで読了まで半年掛かった、という感じ。


「あ、こいつ話し始めたら止まらないタイプのじじいだ」
 ちょうど半分、第8章あたりを過ぎたところで気づいた。
ケヴィン・ケリーって今年63歳らしいんだけど、なんていうか「話し出したら止まらないタイプ」なのが文章から伝わってくる。
放っておいたら技術の話してるのに神とか美とかそういう話し始めて、本人はどんどん調子に乗ってくる感じ。

 「あ、うん。あのね、おじいちゃん。僕そろそろ電車降りなきゃいけないからまたあとでね、後で話の続ききくからさ」みたいな感じで、読んでは中断、読んでは中断で。

 読み終わったあと、気がついたら何箇所かに付箋を貼っていた。
たぶんこの付箋は「お!?じじい、いまちょっと気になること言ったな?」のリストだと思う。

以下はその付箋が貼られていた箇所から抜粋
何ページ目に書かれていたとか、どういう順番だったかは伏せます。

既にテクニウムを読んだ人は「あーそういえば、じいさんそんな話してたねえ」と思って下さい。
まだ読んでない人は、どういう話をするじいさんなのかを読み取って下さい。


哲学者のダニエル・デネットは優雅にも、「知性のデザインの歴史上、言語の発明に勝る飛躍と重要さをもたらしたものはない。ホモサピエンスがこの発明の受益者となった時、それまでの地上の他の種をはるかに超える彼方に飛び出すための発射台に立ったのだ」と持ち上げる。言語の発明は人類にとって最初の特異点(シンギュラリティ)だったのだ。


テクニウムはハードウェアや端末を生み出すものと考えられてるが、むしろ最も無形で非物質的な過程であり、その可能性はまだ解き放たれていない。


・・・次に最も大切なことは、科学は集団行動であり、知識を共有することで現れる知性は、100万人の知性の総和よりも優れているということだ。孤高の科学の天才というのは神話に過ぎない。


生命が必然的なら、魚も必然的だ。魚が必然的なら、知性はどうだろう。知性が必然的ならインターネットは?サイモン・コンウェイ・モリスは「数十億年前に不可能だったものが、より必然的になりつつある」と推測する。

ホモサピエンスは、ある傾向であり実体ではない。


この表を読めば、アイデアは抽象的な形で始まり時間が経つとより具体的になっていくことがわかる。普遍的なアイデアが具体化していくと、必然性が薄れ、条件付けが厳しくなり、人間の意志に近くなる。


・・・つまり、有史前でも後でも、違った場所に起源を持つテクノロジーは同じ進路で収束していく、と結論づけることができる。文化的環境、政治的体制、自然資源の条件が違っても、テクニウムは普遍的な経路をたどる。テクノロジーがたどる道の輪郭は巨視的には、あらかじめ決められている。


1953年にはそうした未来的な旅行のためのテクノロジーは、何も存在してなかったことを思い出しておこう。誰もそんな高速で飛んで生還できるのかわからなかった。最も楽観的な筋金入りの妄想家でも、月着陸はいわゆる象徴でもあった「2000年」より早く実現するとは予想していなかった。それより早く実現できると彼らに囁いていたのは、紙に描かれた曲線だけだった。

私も同様に、テクニウムは「テクノロジーの必要性」に導かれているということを論んじている。これは、巨大複雑系としてのテクノロジーのシステムの性質に焼き込まれており、テクノロジーはより多くのテクノロジーを生み、システムは自己保存するのであって、本来的にテクニウムを人間の欲望の外のある方向に導く。カジンスキーは「現代のテクノロジーは、各部分が相互依存する統一されたシステムだ。テクノロジーの”悪い”部分だけを外して”良い”部分だけを確保することはできない」と書いている。

彼らのモットーは「まず試して、必要なら後で止めればいい」ということだ。我々は試すのは得意だが、止めるのが苦手だ。アーミッシュの方式を満たすには、集団で止めることに上達しなくてはならないが、それは多元的な社会では難しい。

---
※引用ここまで。

400ページ分喋ってるのに最後の最後にトップギアに入れてくるじいさん

 ちょうど「あと50ページくらいで読み終わるなー。話もだんだん収束に向いてきたなー」と感じ始めた頃、一足先にこのじいさんの長話に付き合った(要は読破した)同僚が「最後の20ページくらい、すごいよ。たたみかけてくる」と言ってた。

「もう十分濃いいよwまだ畳み掛けてくるのかよw」とその場で応えたんだけど、


確かに凄かった。


 自己創造について触れている所では結構決定的な表現が出てきて、読みながら勝手に「この表現大丈夫なのかな?決定的すぎて反響がデカすぎる気がする」って心配になったし

 その1分後くらいに、僕が最も好きな漫画「ワールドイズマイン(新井英樹)」の最終話・最後のコマに掲載された言葉と”ほぼ同じ”ことが書かれていたという事に気がついて

 「やっぱヤバイだろこれwwwああもうこのおじいさん最後に言っちゃったよおいww」という気分になった。こうなるとワールドイズマインについてまた別のエントリーで書く必要があるなこれ。


一番ガツンと来た所の引用
----
人類が可能なもの全てになれる人はひとりもいない。どのひとつのテクノロジーもテクノロジーの約束するすべてを体現することはできない。現実を見始めるには、すべての生命、すべての知性、すべてのテクノロジーが必要になるだろう。
このようにして我々はより多くの選択肢、機会、つながり、多様性、統一性、思想、美、問題を生む。これらが合わさってより大きな善となり、価値ある無限ゲームとなる。それこそが・・・
---

 これ、最終章にあたる「無限ゲームを遊ぶ」の中から抜粋した文章で、既に読破した人にとっては「いやお前、そこ引用したらマズイだろ。「犯人はヤス」つってるようなもんだぞww」って思われても仕方ない。

 犯人はヤス、がわからない人はごめんなさい。端的にいうと「ネタバレぎりぎり」の箇所を引用したという事です。


 ここでケヴィンケリーは更に決定的なところに踏み込んでいる。
それは生み出すことの価値と、発見自体は価値ではなくそれを繋げることの価値、そして新たに生まれたものが次に何を生み出すか?の話。


解決策ってさ、生み出されるだけじゃなくて、見つかってつなげて相互接続も含むよね?
 アメリカ大陸はずーっとそこにあった、ナノサイズの物質とその作用も何百年前からずーっとそこにいた、動いていた。僕らはそれをたまたまとあるタイミングで見つけただけ。

 アメリカは1400年代の終わりに「ひゃっはー!新しい大陸で既得権益じゃああ!」ってギンギンになっていたヨーロッパの人に見つかり、
 ナノサイズの物質はここ数十年の間に次々と見つかっている。それぞれ既存の世界との繋がり方が変わり、それが新たな事象を生む。

見つかる、
それまでの世界とコネクトされ、
相互作用する。


あ、これネットじゃん
 これってパーマリンクじゃん、ハイパーリンクじゃん。
そもそもこの文章もさ、タイトル「TECHNIUM(テクニウム)を読んで --元気なじいちゃんの話に半年間付き合った、という話--」
に紐作く文章として、僕が過去に書いた文章や、世の中と接続されるわけだ。

 この文章の中に”書きながら僕が初めて生み出したもの”はほとんど無い。
テクニウムの中に書かれていたことと、僕の脳内にあって整理がついてなかった事、の2種類だけ。


話が横道にそれるけど、僕はtumblrというサービスが大好き

 その理由がパーマリンクのつけ方、世の中にどうコネクトさせるかの話。

 ネットをやってると、ひとつの文節、なにかの記事の中にあるひとつの動画やgif画像、静止画だけが心に刺さることがある。

けど、パーマリンクってのはリンク先にある全てを内包してしまうので、ノイズが入る。自分が刺さった一瞬を切り取ることができない。
このエントリーの中で、仮に読んでるあなたがとある一箇所だけに「グッと来て」リンク(URL)を紹介したとしたら、他の情報があることで「あなたが共有した理由」の情報純度は低くなる。

 けど、tumblrはそれができる。
「ここが俺の刺さったとこなんだよ!」だけでピックアップして、自分のダッシュボードに並べることができる。テキストだろうが動画だろうが絵だろうが。

 これはネット上における”表現”の面において強烈な純度を持っていて、しかもシンプル。シンプルなのに多様性を受け入れているんじゃないのか?と思うのです。

 シンプル、の点でいうとinstagramやvineやrettyとか、とある面に特化したサービスの1億倍tumblrイケてると思う。スタートアップは最小限にフォーカスして始めるはずなのに、最初っから純度の高さを保って決定的で多様性を受け入れてしかもコアユーザーを熱狂させるって、もうTumblrはメディアアートなんじゃないかなーって思う。
 デヴィットカープが当時10代だった、っていうエピソードも含めて出来すぎ。天才エピソードとして出来過ぎなんだよな。

間に合わなかった天才に興味がある
 間に合った天才が僕にとってTumblr、の一方で
テクニウム内にも出てくる話として、技術の進化が間に合わずに死んだ人の中にダヴィンチ、モーツァルトに匹敵する天才がたぶん何人もいる。

 僕は、自分のことを凡人だと100%認めた上で、天才が放つ天才的所業に触れるのが好きなんだよな。

 天才の損失は時代を前に進めるとかそういうことよりも、それに触れることの出来ない人を増やすこと、なんじゃないかなと思うのです。

 もちろん、世の中と接続されることを拒否する天才もいる、けどそれは個人的には大した損失に思えない。その理由は前述の引用した言葉の中にも内包されている。知性の総和。

あ。自分とつながってきたぞ
 僕がなぜここ数年あのプロジェクトに加わっているか?について、実は端的な説明をする言葉を持っていなかった。

 一見してわかりづらく、知名度も無いプロジェクトのため、色々説明してもピンとこないもしくは大きくズレた解釈をされることばかりだった。

 嫁の知り合いは、僕のことをなんだか小難しい事に挑戦している研究者だと勘違いしたらしい。
しかも人工知能関連の。過去のブログを読み返せば無理もないよなー。

テクニウムを読破して得られた視座や知識は色々あるけど、この説明が出来るようになった。という所が一番大きかった。

もはやテクニウムの書評じゃないことくらい自分で気がついてますよ
 これもまたどこかのタイミングで文章にまとめる必要がある。なぜ僕がastamuseに関わるのか。なぜイノベーションのイノベーションというわかりやすそうで実はわかりにくい事に取り組むのか。


あのじいさんが、それを与えてくれるために、半年間長話をしてくれたわけでは無いと思うけど。

(最後に改めて言うけど、ケヴィン・ケリーは自分の話を聞いてくれる人にノンストップで話し続けるタイプだと思う。)