2011/02/18

アメリカを巡る、僕の話。(その1)

※ざっと下書きしたら、とても1エントリーに収まらなかったので
何回かにわけて書く事にしました。


たぶん、3月中旬まで3〜4回に分けて書く事になるかと。


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2002年7月 苗場スキー場 フジロックフェスティバル会場
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毎年、7月の最終週は10人くらいの仲間でフジロックに行くのが恒例だった。
上は30手前から下は大学生まで、年齢差は10歳あったけど
この10人はゆるーく繋がっていて、音楽や普段の趣味もばらばらの癖に
唯一の共通点が『生粋のFujirockers』だということ。

最終日の3日目、朝イチで特に見たいものが無かったので
porarisやゆらゆら帝国を観に行くみんなとわかれて
僕は一人でホワイトステージに向かった。

そこで観たDate course pentagon royal gardenが
僕にとって初めての『菊地成孔』の体験だった。

なんだかよくわからない。
なんだかよくわからないのに、体が自然と動いて
後半のhey joe〜mirror ballsの辺りはなんか腕を振り上げてなんか叫んでた気がする

この年で一番印象に残ったアーティストだった。
東京に戻り、色々検索した。すぐに菊地成孔のホームページをみつけた

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2010年8月 東京/新宿 頓智ドット株式会社 MTGスペース
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9月末にいまの仕事を辞めるとは決めたものの
転職活動はほんとうにしんどかった。

たしかに不況ってのもあるんだけど、なによりも条件を縛り過ぎている。
エージェント会社の担当も、口には出さないけど『もう少し条件を広く…』と言いたくてしょうがないだろうなー

だけどさー、このタイミングでこの年で動くってのはそれなりの覚悟があるわけで
ここで妥協しても、なんもいい事ないしなー

レジュメは120社みて、面接も20社くらい受けた。
けどどこもしっくり腹に落ちるところが無くて、こちらからお断りした企業も
半分以上あった。

121社目に紹介された頓智ドット株式会社。
ARとかセカイカメラとか、名前くらいしか知らない。

面接がはじまって、10分くらいたった頃
『あ、採用されたらここにしよう』と直感的に思った。
面接はなんだか異様に盛り上がって、楽しくて何話したか覚えてない。

2日後、採用の連絡が来た。
おかしいな、2次面接まであるって聞いてたのに

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2002年10月 自宅

音楽関連のニュースサイトを漁っていたら、DCPRGの事が載っていた

サウス・バイ・サウス・ウエスト…?
アメリカのオルタナ系ミュージックイベントか。

でも大丈夫かな、菊地さんのHP読む限り、相当病気の様子もよくないのに
飛行機とか乗れるのかな…?
(当時、菊地成孔は不安神経症の療養中で音楽活動も散発的だった)


案の上、僕の予測は当たってしまった。
DCPRGはSXSWへの参加を取りやめ、菊地成孔のアメリカ上陸は幻となった。
しかも予定されていた2ndアルバムの発売まで無期限延期となった。

Twitterもmixiもfoursquareも、facebookもまだこの世に生まれていなかった

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翌年、ぼくは3年勤めた家電量販店を辞めて
ネット業界で働く事になった。


2003年4月のこと。いまからちょうど8年前か

(続く)