2011/04/19

スタートアップと、年齢と、うちの親父の話


今日のエントリーを書くきっかけになったのはこの記事を読んだからです

無敵のスタートアップチームの構成とは?

ですが、冒頭からすいませんがいきなり話が飛びます。
うちの親父の話です。

うちの親父は今年72歳になるので、とっくに定年リタイヤしてるのですが
若い頃は『広告代理店営業マン一筋40年』の、
生粋の営業畑でして

いわゆる高度経済成長期の広告代理店ですから
テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、交通広告が主戦場。

よく小さい頃は協賛してるテレビ番組の収録を見学させてもらったり
都内を車で走っていると、『あのでかい看板広告はこの間俺がやった仕事なんだ』
なんて、自慢げに説明されたりしたものです。

で、そんな親父がですね
65歳になって定年退職、仕事一筋でゴルフ以外にまともな趣味も無く
はてさてどうすんのかなーと思ってたらですね

なんと、気の合う仲間と起業しやがったんですよww
65歳にして初めての起業、そして少人数体制のベンチャーw

何のビジネスかっつうと、それまで広告業界で培った人脈と営業力を武器にしてですね
小さな広告代理店を立ち上げたのですw

で、少人数だとすんごい小回り効くじゃないですか
あらゆるパイプから、広告枠を仕入れては、
がんがん新規クライアント開拓して、安く叩いて売るというw
(※業界用語で『叩く』とはディスカウントの事です)

『今回のコンペ相手は、○○(超大手代理店w)だから、あいつらに負けないスピードで価格交渉して、呑気に社内稟議回している間に、クライアントひっくり返してやるんだ!』
とか息巻いてるわけです。

しかもある日、俺にパソコンの使い方を教えろというわけです。
機械音痴で、無理だろーなーと思ってたんですが
メールだけとりあえず覚えさせたら

目の前で、持ってる限りの名刺の相手に向けて
どんどんアポ取りと広告枠提案のメール送り始めやがった

もうね、脱帽ですよ。
今はもう年とったんで、ゆっくり隠居してますけどね。

はい、そしていきなり本題突入ですが
これの話。

この記事の中では、
コーディング/プロダクト開発できる人
→ハッカー

ビジネスセンスがあり顧客/提携パートナーを引っ張って来れる人
→ハスラー

UI含め、人々に支持されるデザインが出来る人
→デザイナー

と定義し、スタートアップに必要なのは最小で最低限だけど
この3人さえいればOKだとしている。

逆に言えば、10人いようが50人いようが
この3人のどれかが欠けていれば成功の可能性は低いだろう、と暗に指摘している感じですかね。

で、僕はまずこの記事で書かれている事には
深く首を縦に振るくらい同意です。

ITベンチャーの端くれで10年近くメシ食っている身としては
この『最強のトライアングル』が結果を出して来た例をいくつも目の当たりにしてきたし

逆に、うまくいくかなー?と思っていたら3つのうちどれかが足りず、
もしくは途中で仲違い等で抜けてしまい
その後もの凄い勢いで失速した例も、見てきました。

根底に、自分たちが突き進むサービスや製品に対しての
統一したビジョンっていうか、『これがクールなんだ!』っていう確信とか
苦しい状況でも『やったる!』みたいな想いが無いと

優秀な3人が集まっても上手く行かない例もありますから。

この辺り、僕は音楽経験があるので
ものすごーく、バンド活動に近いんじゃないかなと、いつも思います。

優秀なソングライター、いい歌詞が書ける人、
自分の役割を弁えて徹する事のできる演奏者(ボーカル含む)
インディーズの場合、ここにレーベルや業界とうまくパイプが創れる人も必要だし

一見、バンドではなくユニットやソロで活動してるアーティストでも
実は、メンバーとしてクレジットされない領域に
必要不可欠な人物がいるパターンもあるし。

で、僕の周りでまだメジャーになっていなくて、
『かなりこれは、理想的なチームでやれてるのかな?』と感じるのが


先日、Teclosion2011で最優秀賞に輝き
まさに日本のスタートアップ2011年最大のホープである(笑・でも本当ですよ)

Wondershakeというサービスを創っている、鈴木くん。(Doubles9124)


僕が働く頓智ドットで、3月までインターンしてくれていた
まだ20代前半の男です。

あと、Grow!というクリエイター支援のソーシャルパトロンプラットフォームを先日ローンチした

彼は本人が『CCO』(チーフ・コネクティブ・オフィサー)って名乗るだけあって
前述の記事でいうところの、典型的『ハスラー』タイプ。

正直言うと、僕は『wondershake』も『Glow!』も
上記の2人以外のスタッフとは、面識が無いのですが

話す中で伝わってくるものは確実にあって、彼らが理想に近いチームで
ガツガツやれてるんだろうな、ってのは容易に想像つきます。

----------------------------
さてここからちょっと話題が『年齢の話』に移行していきますよ
----------------------------

前述の2人、そしていまや『世界で最も有名な』少人数スタートアップから
成功を収めた『facebook』のマーク・ザッカーバーグに共通するのが

年齢が若い。ってこと

IT業界は、歴史が浅いので他の業界に比べて若いのは当たり前ですが
facebookのザッカーバーグ含め、立ち上げ時全員20代前半なわけです。

僕が、フリーターとして極貧生活しながら社会の底辺を蠢いていた時代ですね
(どうでもいい)

で先日、フェイスブック 若き天才の野望を読み終わったのですが


僕が読後感として持ったのは、まず読んでいる間全身が震えてるわけです。
手に汗握ってるし、なんで震えていたかはよくわからないです。
西野カナは『会いたくて震えている』と自己分析出来ているわけで、
尊敬に値しますよね(適当)

で、自分の感想を一言にまとめようと思ってひねり出したのが
『悔しい』
だったわけです。

何が悔しかったのかなー?と5分程自己分析してみたんですが
まず『スピード感と妥協しない』感じが、負けてるなと。
あと、やはり人との出会いに恵まれていて、単純にラッキーではなく
彼らのパッションが運命を引き寄せた感がある。

で、同時にほっとした感情も湧いてきまして。
・読み終わった後に『悔しい』と思える自分でよかったな、と
・あと、悔しさの対象が『若さが羨ましい』でなくて良かったなと。

これ読み終わって悔しさの一片も湧いてこないとか、
その対象が『若いっていいな』という、時間軸なんてどうしようもないじゃん的
自分を楽に納得させるような所に着地させてたら、
俺けっこうやばいんじゃないかと。

僕は、コードが書けませんし、デザインについても
昔少しサイトのディレクターやった時に画像加工した事があるくらいで

前述3つのパターンにはめると、僕はハッカーにもデザイナーにもなれないので
もしスタートアップをやるとしたら、ハスラーしかないわけです。

っていうか、コード書けない&デザインできないの人は必然的に
ハスラーとしてどれだけ優秀なのか?が問われるわけで。

ここで、冒頭のうちの親父の話。
ま、うちの親父は別にIT企業にいたわけじゃないですし
代理店マンですから、プロダクトとかサービス創造側ではないのですが

もし、65を超えてもあの圧倒的バイタリティを持ったうちの親父が

この2011年に、俺と同い年で、IT業界に身を置いてたら
なんてことを妄想すると

たぶん、もんのすごい熱量をもった『ハスラー』タイプなんじゃねえかなーと
勝手に思ったわけで

僕自身の中に流れる『年齢って、別に関係ないよね?』という
恐らくうちの親父譲りのマインドも含め

頑張っていかなあかんなーと、
決意を新たにした感じです、はい。

2011/03/24

東日本大震災で成田空港に閉じ込められながら考えた事

このエントリーは、テキサス州オースティンで開催されていた、全米最大の音楽/映画/インタラクティブサービスの祭典
sxsw(サウスバイサウスウエスト)に、僕らがリリースしたばかりの新サービス『domo』をブース出展する為に

2011年の3月11日夕方5時発ヒューストン行きの便に乗ろうと、成田空港に居た時に遭遇した
あの地震の事(※東北地方太平洋沖地震/東日本大震災)について、色々と書きました。

ちなみに、その時同じ便に乗るべく成田空港で待ち合わせていたうちの広報も
当日の事を既にブログにまとめてます。
出張メモ:3月11日から12日
----------------------------
集合は成田空港第一ビル南ウイングチェックインカウンター前に15時

僕と、広報の康、domoの責任者児玉、
そして今回僕らが参加する2つのパネルでモデレーターを快諾してくれたTechCrunchUSのセルカン•トトの4人

ちょうど集合時間直前に、旅行保険の手続きをAIUのカウンターでしている最中でした
用紙にサインしたあたりで、揺れが発生。

『かなりでかいな』と思いつつ、割と物事に動じないので身を屈めて振り返ってみると
僕以外には、その場にしゃがみこんで起き上がれない様子の外人三人組の姿だけ。
身の危険を感じて出口に向かって殺到する大勢の人達が見えました。

そんときの僕のツイートがこれ。

成田空港めっさ揺れたーヘ(゚◇、゚)ノ  



空港、看板落ちたり外に人が走り始めて軽くパニック。
わりと冷静だった。
書きかけの旅行保険申込書をさらさら書いて、まだ動揺してるカウンターのお姉さんに渡したりして。

ただ、その後広報の康さんと合流した直後に
二度目のかなり大きい余震襲来。
空港内のデカいサインボードが近くで無茶苦茶揺れて、正直怖かった。

空港は、たぶん天井に溜まっていたホコリが全部落ちて来たのか
軽いもやが掛かっていた。異様な光景。

このあと、全員空港内の安全確認ができるまで一時避難と言われた

成田空港、チェックイン手続き中断で全員外に避難することに。 http://yfrog.com/h7m4bpyj
外は晴れてて、せいぜい2時間程度フライトが延びる程度かな?とかのんびり考えていた

twitterで、どんどん各地の状況が報告されてきた。
テレビもなく電話も通じない空港の外で唯一の情報入手経路だった

震源地は東北らしい。火事?津波?マグニチュード8以上?え?え?

結局2時間の遅延フライトどころか、空港の外に3時間居た。
やっと1階のロビーに入れた頃、外は暗くなっていた。
都内の交通機関はマヒ、twitter上で知り合いがみんな徒歩で帰っているらしい。

すぐに、その日のほぼ全ての便が欠航した事を知らされた
そして僕はここではじめて【孤立した成田空港でいつ飛ぶかわからない飛行機を待つ】
というハードな状況を把握した(遅せえよw)

テレビなどが見れる方へ。成田空港内、情報が掴めず困ってます。もし国際センターの運行状況など流れたらリプライで提供頂けると助かります。

テンパってたのか、国際線を国際センターとか誤字ツイートしてた。

しかしどうする。確実に今日飛行機が飛ばない。どこに泊まるの?あれ?やばくね?
後日デマだとわかったけど、『滑走路に亀裂が入ってる』なんて話しも出ていた。

成田周辺在住もしくは実家のある方へ。国内線は全便欠航、恐らく国際線も無料で足止めくらってます。うちの社員3名(男2.女1)泊めて頂けるとありがたいです……

最悪、空港のロビーで雑魚寝も覚悟した。ぼくはキャンプとかに馴れてるので
一晩くらいならハードな状況なんてどうってことない。

それよりも気にかけたのはうちの広報。女性にこの状況はきつい。
精神的にもつらいだろうし。
あと、あまりに足止め期間が長いと現地に先入りしてるスタッフに迷惑がかかる。
現地で配るノベルティは、まだ僕らの荷物の中にある。
最悪これだけでも郵送で飛ばせないか?とか色々リサーチしてた。

あと、TL上で有益な情報を見つけたらとにかく公式RTしてた。
ぼくのフォロワーは平均と比べて多い。
少しでも有益な情報を提供出来るハブになれればという一心だった。

とはいえ、僕らもへたすりゃ空港のロビーに雑魚寝か?という状況のさなか

この後、奇跡的な流れが一気にくる。

広報の康が、偶然twitter上で昔の同僚が成田空港にいるところを突き止めた。
しかも歩いて10分程度のレストハウスで普通にごはん食べれているらしい。

合流して、ハヤシライスをもの凄い勢いで食べ尽くした。

腹は膨らんだけど、泊まるところはどうすれば。。。。。

お?

おお?

もしや。。。。

僕『すみませんあのー、こちらのレストハウスって部屋の空きあります?』

フロント『はい、1部屋3人様用であれば』

僕『(!!)あ、あの、そこに4人で泊めて頂けないでしょうか?ご存知かと思うのですが飛行機が飛ばなくなって明日までフライトが延びて……』

フロント『少々お待ち下さい…(中に引っ込んで上司(?)と相談)お待たせ致しました。こんな事態ですので、特別にお請けさせて頂きます。1泊15,300円ですがよろしいですか?』

うおーーーーーーーー!やったーーー!

我ながらなんと機転の利いたアクション。まさかこの事態の最中、ホテルの部屋で寝れる状況にこぎ着けるとは

ご報告。空港そばのレストハウス3人部屋に、今日特別って措置で4人泊まれることになりました。ほんとにありがとうございます
なんでお礼を述べてるかというと、ここに至るまで
何回も『誰か泊めてくれ』ツイート連発して、もの凄い量のRTとか
励ましの言葉を頂いていたからです。

無事、部屋にチェックインした直後

とにかく今なにが起きているのか知りたい一心で

なにげなくテレビのスイッチを入れました。

その瞬間、僕らの目に飛び込んで来たのは

東北の街が、見た事も無い迫力の津波にどんどん飲み込まれていく映像

まるでハリウッド映画のCGか何かかと見間違えるような

確実に、現実に、いま日本で起きている出来事を一瞬で理解しました。

空港から避難命令が出た直後、心配した親から電話があり
早々に家族全員の無事が確認出来て、
それ以降はとにかく渡米する事だけを考えていたのですが

ちょっと何とも言えない、気分になりました。
テレビはすぐ消しました。

会社からのメールを、やっと冷静にチェックする事ができました。

上司から、安否を確認するメールが届いていたのですが
その中にこんな一節がありました
----------------------------
まずは無事でいる事が先決なので、無理をしないように
何かあれば情報収集など全面的に支援します。

ただ、こういったタイミングですので
振替便の手配による渡米を、予定通り行うかどうかは
各人の判断に任せます。

日本に残る家族や知人が気にかかってしまう事もあると思います

各人で判断し、最悪キャンセルも致し方ないと思います
そして、各人の判断を決して周りの他の人に押し付けないで下さい
もちろん、渡米するということであれば最大限支援します
(※実際のメールの内容を、要約してます)
----------------------------

僕の答えは決まっている、渡米だ。それ以外に考えられない。

このメールの件を他の3人に伝え、意思確認した。

全員一致で、渡米するという結論に至った。


とにかく寝よう、明日早く起きて振替便の手配をするんだ

-----

起きた。ちょうど夜明けだ
これたぶん朝6時くらい。
余震もあって3時間くらいしか寝れなかった


成田空港では、無料チャーターバスがではじめました。エスカレーターも復旧。家族や知人の方が足止めされて心配された方にお伝え下さい。僕らは元気です。僕はこれからチェックインカウンターで振替便手配に向かいます

空港内は、ロビーで夜を明かした1万人の人達で
埋め尽くされていた
みんな寝袋にくるまって、起きている人達も顔は疲れきっていて

僕らは、その中を縫うようにチェックインカウンターに向かった。

各自の連係プレーで、昼1時の便が取れた。
ヒューストンまでは飛べる。その先オースティンまでの便は確保できてないけど
どうにかなる、どうにかしてやる。

喫煙所で一服しながら、ふと思った。
本当に、いま僕はアメリカに行くべきなのかな?
僕が日本に残って、出来る事なんて限られているけど
本当に、今アメリカに行く事にどんな意味があるのだろう?


こんな大変な時に日本を離れてアメリカへに渡って、日本のITサービスの凄さを全世界にぶつけてくる。なんて、正直複雑な気持ちです。ただ、


不謹慎かもしれ無いけどこういう時だからこそ、行きたい。アメリカにもこの日本の状況が伝わっている。彼らは災害時も冷静に行動する日本に驚嘆している、そしてたくさん祈ってくれている


SXSWで日本の僕らが大暴れすれば、世界中のTech系を中心としたメディアが取り上げてくれるはず。そのニュースで日本に明るい話題を持ち込みたい。戦災や阪神大震災から復興した日本が不死身だと、そしてたくさんの祈りをありがとう、と伝えてきます。

※これ、ツイートしてすぐに『やべー、ついなんか熱くなって、らしく無い事言っちゃったなー』ってちょっと後悔したんだけど、
もの凄い勢いでRTされたり応援メッセージが飛んで来たので、消すに消せなくなったんですw

地震発生から22時間後

本来のフライト予定時刻から、20時間後

僕らは、テキサス州オースティンに向けて出発しました。

この先の、現地での出来事はまた今度書きます。

2011/03/20

日本に帰ってきました

3/11に、成田空港で地震に遭遇し、空港内で20時間足留めされ

まだ余震が頻発し、空港内に寝袋で床に寝る人達を縫うようにしてチェックインカウンターに行き

奇跡的にとれた振替便で出発

被災地の状況も、都内の停電も、原発の様子もよくわからないまま過ごした
アメリカ、テキサス州オースティンでの1週間を経て

19日(土)午後3時、無事に帰国しました。


成田空港での出来事や、アメリカで感じた事、考えたこと、出会った人達のこと、については

往復の機内で書き溜めた、とんでもない文字数の下書きがあるので
それをまとめて、後日エントリーしようと思います。

とりあえず、

成田空港が、正常通り動いている風景にまず、感無量でした。

あの日みた、
ロビー内が大きく揺れて、サインボードが音をたてて揺れて、天井から物凄い量のホコリが落ちてきて視界が霞み
あまりの揺れに外国人旅客がその場にへたり込んで動けなくなり
エスカレーターが停止、一晩開けても空港中の床に寝袋で夜を明かした人達が疲れきった表情で座っている

そんな空港の風景が、すっかり日本の玄関としての風格と落ち着きを取り戻していた事

都内が、少し騒々しさが無くて薄暗い場所があったけど
みんな普通にいつも通り、やっていた事

久しぶりの日本での夜は、アメリカに比べると寒くて
でも、とても静かで穏やかで
びっくりするくらい月が綺麗だったこと。

とりあえず10時間爆睡して、やっぱ日本もいいねえと
普通に思えることの喜び。


さて、やりますか皆さん。

いつまでも不謹慎とか自粛とか、中途半端に周りに気を遣うような真似してないでさ
電力消費は少なめに、被災地で頑張ってる人達への祈りと尊敬の念だけ忘れずに。

がんがん仕事してがんがん消費して、経済ぶん回して行きましょう

アメリカで食ったテキサスビーフってさ、

日本で食う牛肉なんかと違って、全然硬いの。
それをさー、何百グラムも噛みちぎって、肉汁と血を滴らせて食ってるとさ
肉食だとか、サヴァイヴしてくことの意味や、欲求がどんどん目覚めるのよね

サシが沢山入った、柔らかくて美味しい牛肉も嫌いじゃないけど
あんまし口当たりのいいもんばっか食ってるとよくねえなーと。

せっかく東京でさ、ある程度日常が支障なくおくれる立場にあるんだったら
もう、『いつも通り』を、ちょっとだけ『いつも以上に』やったらいいと思うわけ

さてー頑張りますかー

2011/03/05

アメリカを巡る、僕の話。(その2)

前回の投稿、アメリカを巡る、僕の話。(その1)はこちら

----------------------------
2010年9月 
----------------------------
8月末で7年勤めた会社の最終出社を終え、9月は丸々休暇に充てた。

1ヶ月間も休むなんて、社会人になってはじめてじゃないかな?
10月から働く事になった頓智ドットから連絡が来た。

色々と事前のやりとりをしていた人事(?)の人から
『9月の第二週、週末に1泊2日で全社員研修をやるから、もしよければ親睦も兼ねて同行しませんか?』
とお声掛けを頂いたので、行く事にした。

※実は、当時人事担当だと思っていた人物が
うちの敏腕CFOだと判ったのは、入社後なんだけど。。。

合宿当日、朝早い時間に東京駅京葉線ホームに集合。



ぼくは



がっつり遅刻したwwww


もう起きた瞬間にあきらめがつくくらいの完全なる寝坊。

たしか9時に東京駅集合で、起きたら8時55分。

どうしよう。どどど、どうしよう。

土曜の朝早く(寝坊してるけど)、
まだまだ嘘を飲み込み静かに眠っているMAD CITY((C)BOOWY)の空を見上げながら

あらかじめ聞いてあった連絡先に電話を入れ、受話器が擦れんばかりに謝ったあと
1時間遅れで外房線に乗り込み上総一ノ宮に向かった。


急いで電車に乗ったので暇を潰す道具はiPhoneくらい。
『途中、着く駅で4sqにでもチェックインするかー』とかのんびしりてたら

田舎過ぎてiPhoneが圏外になり、とりあえず死んだ魚の目で車窓から流れる景色を眺め

死んだ魚の目の僕を、活き活きとした魚が近くに泳いでいる場所まで
列車はひた走り、なんとか上総一ノ宮の合宿所に到着。

既に班分けされていて、僕は(当たり前だけど)初対面のメンバーに混ざり
チーム対抗の合宿がスタート。

誰が何をしているか、名前も全然わからないなか1日目が終わり。
ホテルの部屋も班同士の相部屋。

そこで、僕は研修中から気になっていた男と少し話した。
名前は児玉さん。

研修中から連呼していた『構想中のサービス』についての説明を聞く。
仮タイトル『domo』

科学者を父に持ち、一流の大学院で博士号を取るほどの男が
自信満々にサービスの説明をする。

人と人とのエンカウント、単純な視覚効果に留まらない
本当の現実拡張の世界。

まだまだマインドセットが古い状態でいた当時の僕には
純粋に『面白いな』と感じた程度の話だった

----------------------------
2003年9月
----------------------------
菊地成孔の療養で延びに延びていた、DateCoursePentagonRoyalGardenの
2ndアルバムが発売になった。


2曲目のタイトルは
structure II la structure del' Amerique medievale / 構造 II(中世アメリカの構造)
恐らくこのアルバムの中で、最も無秩序なポリリズムが交錯するカオスそのものの曲


一度もいった事がないアメリカ、SXSWへの客演で初めて上陸するはずが
自身の療養のため、それが叶わなかったアメリカ。


その3年後、2006年に発売されたDCPRGの3rdアルバムのタイトルは

一度もアメリカに行った事が無い、フランツ・カフカにとっての、アメリカ

アルバム発売当時、アメリカに初めての黒人大統領誕生か?というニュースがよく流れていた。

変わろうとするアメリカ

一度も行った事が無いアメリカを想いながら書かれた曲、リリースされたアルバム

最初から、特に海外展開なんていう仰々しいワードではなく。

淡々と、意識せずにサービスのターゲットとして捉えられたアメリカ

この年のSXSWで、リリースから僅か数ヶ月のサービスが
intaractive部門でアワードを獲得
次世代のサービスとして一気に注目を集めた

それが、twitter


2007年3月の出来事。

僕が、前職で自社媒体の販促部署から直談判して
クライアントへの直営業部隊へ、異動した頃だな

(続く)

2011/02/18

アメリカを巡る、僕の話。(その1)

※ざっと下書きしたら、とても1エントリーに収まらなかったので
何回かにわけて書く事にしました。


たぶん、3月中旬まで3〜4回に分けて書く事になるかと。


----------------------------
2002年7月 苗場スキー場 フジロックフェスティバル会場
----------------------------

毎年、7月の最終週は10人くらいの仲間でフジロックに行くのが恒例だった。
上は30手前から下は大学生まで、年齢差は10歳あったけど
この10人はゆるーく繋がっていて、音楽や普段の趣味もばらばらの癖に
唯一の共通点が『生粋のFujirockers』だということ。

最終日の3日目、朝イチで特に見たいものが無かったので
porarisやゆらゆら帝国を観に行くみんなとわかれて
僕は一人でホワイトステージに向かった。

そこで観たDate course pentagon royal gardenが
僕にとって初めての『菊地成孔』の体験だった。

なんだかよくわからない。
なんだかよくわからないのに、体が自然と動いて
後半のhey joe〜mirror ballsの辺りはなんか腕を振り上げてなんか叫んでた気がする

この年で一番印象に残ったアーティストだった。
東京に戻り、色々検索した。すぐに菊地成孔のホームページをみつけた

--------------------------------------------------------
2010年8月 東京/新宿 頓智ドット株式会社 MTGスペース
----------------------------

9月末にいまの仕事を辞めるとは決めたものの
転職活動はほんとうにしんどかった。

たしかに不況ってのもあるんだけど、なによりも条件を縛り過ぎている。
エージェント会社の担当も、口には出さないけど『もう少し条件を広く…』と言いたくてしょうがないだろうなー

だけどさー、このタイミングでこの年で動くってのはそれなりの覚悟があるわけで
ここで妥協しても、なんもいい事ないしなー

レジュメは120社みて、面接も20社くらい受けた。
けどどこもしっくり腹に落ちるところが無くて、こちらからお断りした企業も
半分以上あった。

121社目に紹介された頓智ドット株式会社。
ARとかセカイカメラとか、名前くらいしか知らない。

面接がはじまって、10分くらいたった頃
『あ、採用されたらここにしよう』と直感的に思った。
面接はなんだか異様に盛り上がって、楽しくて何話したか覚えてない。

2日後、採用の連絡が来た。
おかしいな、2次面接まであるって聞いてたのに

----------------------------
2002年10月 自宅

音楽関連のニュースサイトを漁っていたら、DCPRGの事が載っていた

サウス・バイ・サウス・ウエスト…?
アメリカのオルタナ系ミュージックイベントか。

でも大丈夫かな、菊地さんのHP読む限り、相当病気の様子もよくないのに
飛行機とか乗れるのかな…?
(当時、菊地成孔は不安神経症の療養中で音楽活動も散発的だった)


案の上、僕の予測は当たってしまった。
DCPRGはSXSWへの参加を取りやめ、菊地成孔のアメリカ上陸は幻となった。
しかも予定されていた2ndアルバムの発売まで無期限延期となった。

Twitterもmixiもfoursquareも、facebookもまだこの世に生まれていなかった

----------------------------

翌年、ぼくは3年勤めた家電量販店を辞めて
ネット業界で働く事になった。


2003年4月のこと。いまからちょうど8年前か

(続く)